“俳優・錦戸亮”の引き出し/映画「羊の木」を観ました

 

 2018年2月3日。錦戸亮さんが「抱きしめたいー真実の物語ー」以来約4年振りに主演を務めた映画「羊の木」が公開初日を迎えました。

 

 

 映画の制作が発表されたのは、今から約1年半前の2016年9月23日。その当時、2018年公開と聞いて、「2018年になっても錦戸さんのことを好きでいられるのだろうか」と不安に駆られたりもしたのですが、そんな心配は杞憂でした。何なら、2016年9月よりも2018年2月現在の方が錦戸さんのことを好きだという自覚があるし、その好きだという気持ちは熱を帯びていく一方で一向に収まる気配を知らないので、きっとずっと好きなのだろうと開き直り、すっかり安心しきってこの現状を楽しんでいるのだから、この際仕方がありません。

 

 “NEWS・錦戸亮”でも、“関ジャニ∞錦戸亮”でもない。いわゆる“アイドル・錦戸亮”からではなく、“俳優・錦戸亮”がきっかけでファンになったことが影響しているのか、やっぱり“俳優・錦戸亮”には特別な思い入れがあって。久し振りに銀幕で“俳優・錦戸亮”に会える、と思うと胸の高鳴りは抑えきれず。まるで、明日の遠足が待ち遠しくてうずうずしている小学生のような。

 

 

 “想像を超える衝撃と希望のラスト”———映画の公開を今か今かと待ち焦がれること約1年半。そのキャッチコピーの真相を確かめるために、公開初日の朝一番の上映回。相当な覚悟(と期待)を持って、劇場へと足を運びました。

 

 

 以下、ネタバレを含みます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 観る側の人間に息つく暇さえ与えない、この映画におけるただ唯一の“普通の人”である月末みたく、ひたすら手中で転がされ続けた126分間でした。錦戸さんの言葉を借りるならば「朝からすき焼き食ってる」みたいな感覚。口に運んで、辛うじて食道は通過したものの、いつまでも撹拌・消化しきれずに胃の中に残っているような。初見から早いもので一週間が経ちますが、未だにモヤモヤしていてこの独特な世界観から抜け出せない。観終わって、そんな不思議な感覚を抱いた映画は、生まれて初めてかもしれません。

 

 

 

 

 

そもそも、“羊の木”って? 

 映画公式サイトによると、東西交易がまだ至難だった中世の時代、ヨーロッパでは「東方には羊のなる木がある」と信じられていたそうですが。いかにも単純な発想すぎて、笑ってしまいたくもなるのだけれど。

 その単純な発想で考えるのならば、例え罪を償い出所した更生意欲の強い仮釈放者でも、「元受刑者」というレッテルは取り去られないまま、いつまでも「怖い」、決して普通の人とは分かり合えない“究極の他者”として排除すると考えるのが自然、ということになります。が、それでは、そのような考えばかりの世の中では生きづらい。大野の「人が肌で感じることはたいがい正しい」という言葉も確かに正しいかもしれないけれど、そんな大野の受け入れ先であるクリーニング店の奥さんの「私はあんたが悪い人だなんて、一つも肌に感じてないんだけど」という言葉に、僅かな希望を見出せたような気がしました。物語ラスト、海中に沈んだ巨大なのろろ像が引き揚げられるのをバッグに、奥さんが向けるセルフィ―カメラにぎこちない笑顔で収まる大野が、何とも微笑ましくて。理髪店に勤める福元も「俺が一番分かってると思うよ、前科者の苦労は。大事なことは、居場所があるってことだよ」という同じ境遇にあった店主に受け入れてもらえた。元受刑者だからと見限らず、自分の“居場所”を作ってくれた。結局のところ、元犯罪者であろうとなかろうと、「その人といたいか」どうかが大事なんだって。過去に囚われず、ありのままの自分とフェアに向き合ってくれる人々がいたから、大野も、福元も、理江子も、清美*1もこの街で、魚深の新住民として生きていけるのだと思います。

 

 

 

 

 

月末と宮腰

 そして、この映画において繰り返し登場する「友だち」というワード。主に宮腰が月末に対して、月末が宮腰に対して使う言葉、なのですが。この「友だち」っていうワードが狡い。魚深に新規に転入することになった6人の男女の受け入れ担当を命じられた月末が繰り返す「いいところですよ。人もいいし、魚も旨いです」という言葉。その言葉は宮腰を助手席に乗せた時、「いいところですね。魚とか旨いんでしょうね」という言葉が返ってきて初めて報われたというか。最初は市役所の職員として接していたのが、きっとその時から「この人とだったら友だちになれるかもしれない」と惹かれている部分もあったのかな、と。

 

 けれど、月末が昔から思いを寄せる幼馴染・文と宮腰が付き合い始めたと知ってからは、文に対して「友だち」としては絶対に言ってはいけない秘密を漏らしてしまって。「お願いだから、このことは誰にも言わないで」と文に懇願するところは、市役所の職員としての立場からの発言であったと思うけれど、勢いのあまり言ってしまったとはいえ、自分がやってしまったことの重大さに気が付いて、すぐに宮腰に謝罪の電話を入れたところは、「友だち」としての立場からすっと出てきた発言ではないかな、と。まあ、「とりあえず友だちと言っておこう」という狡い気持ちもあっただろうけれど、月末は例え元受刑者でも宮腰と「友だち」としていたかったのだろうな、と。

 

 そして、それは宮腰にとっても同じで。月末に対して何度も「市役所の職員として?それとも、友だちとして?」と問い掛けるのは、幼い頃から友だちも少なかったというバックグラウンドが感じ取られる彼にとって、月末が「元犯罪者」ではなく「友だち」として向き合ってくれた、数少ないうちの(もしくは初めての)一人だったからではないか、と。だから、ソファでいつの間にか寝てしまった月末の寝顔を見つめるだけで手をかけようとはしなかったし、真っ暗闇の中、明かりも点けずに縁側でエレキギターを抱えながら月末が起きてくるのを待っていた。

    岬に連れ出し、「月末くんと僕。どっちが生き残るか、のろろ様に決めてもらおう」と崖の上にいるのろろ様に判断を委ね、月末の手を引いて海に飛び込むところも、少なからず月末と宮腰の間には通じ合うものがあった。昨日もおとといも人を殺めたのに、そんな人殺し=“究極の他者”であるはずの自分に対して「警察行こう。また戻ってこればいい。待ってるから」「友だちだろ?」なんて何の躊躇いもなく告げる月末、宮腰はそんな彼の首を締めて殺そうとするけれど、最終的にはその手を離しますよね。それは、まだ“生まれたばかりの赤ちゃん”のように未熟で、時には何も考えず衝動的に人を殺めてしまう宮腰に、初めて迷いが生じたのがあの時だったのではないか、と。結果として、死の直前になって初めて芽生えた「誰かに対して本気で怒る」という感情。もしもあの時、月末の言葉を信じて、更生する道を選んでいたのなら。10年後、普通に月末とも「友だち」として過ごせていたのかな、とありもしない未来を想像して泣きそうになりました。

 

 

 

 

 

映画「羊の木」における“俳優・錦戸亮

 日本で公開初日を迎える前に、第22回釜山国際映画祭に正式出品、キム・ジソク賞を受賞した「羊の木」。そのワールドプレミアにて、この作品のメガホンを執った吉田大八監督は、“俳優・錦戸亮”についてこのように語っています。

 

「普通の人を演じる天才的な能力がある」 

 

 この映画「羊の木」で錦戸さんが演じたのは、どこにでもいるごく普通の市役所職員・月末一。けれど、その“ごく普通”を実際に演じるのは、すごく難しい役だろうと思っていて。だって、普通に立っているだけでも、そのオーラに圧倒されるのだから。

 

 けれど、完成した作品を見てみると。そこには“アイドル・錦戸亮”ではない、どこにでもいるごく普通の市役所職員・月末一として、この「羊の木」という独特な世界観の中に存在している“俳優・錦戸亮”がいた。

 

 月末が思いを寄せる幼馴染・文を演じた木村文乃さんも、

「インの日が区役所のシーンだったんですが、後ろから月末に声を掛けられて振り返ると、もう本当に昔からの幼馴染のような人懐っこい表情の錦戸さんがいて、「うわぁ月末だ」って思ったのを覚えています」 

 とコメントしていますが、 まさにそれで。演じているのは錦戸さんで間違いないのだけれど、そのキラキラとした、いわゆる“アイドル然とした”オーラは見事に取り払われていて。それこそ、ずっと地元・魚深から出ることなく、世話好きのおばさんに定期的に「彼女出来た?市役所に勤めてて、どうして出会いの一つもないかねぇ!」なんてお節介を焼かれながら歳を重ねてきたのだろう、なんて思いを馳せずにはいられないくらい。

 

 

 きっと、錦戸さんの頭の中にはAとBとはたまたZ、といったような演技の引き出しがいっぱいあって、それを丁度いい塩梅に料理するのに長けている、といつも感心してしまうのですが。奇妙な物語の中で、元受刑者6人に翻弄されることになる月末。「ひたすら受けの芝居が続く難しい役柄なのに、1シーンとして同じ表情がない」という監督の言葉に全力で頷けるほど。本人は「『今はこういう顔!』とか考えてやってない」とのことですが、これまで見たこともないような、錦戸さんの表情も発見できました。

 

 

 このブログを綴っていて、2008年秋に放送されていたドラマ「流星の絆」で共演した二宮和也さんが、錦戸さんについて語っていたある言葉を思い出しました。

 「錦戸くんがすごいのは、絶対音感じゃないけど、相対音感というか、そういうものを持っている点」

  相手に合わせる受けの芝居も、主演として全体を引っ張っていくこともできる。錦戸さん自身「(主役を食う演技をしてくる脇役に対して)一矢報いてやりたいみたいな。俺も死ぬほどねじ伏せる」と言っておりましたが、それは主演を務めたこの映画「羊の木」でも同じことで。主人公(=主役)はもちろん月末一なんだけれど、この役には物語の軸となる“普通っぽさ”が求められている訳であって、悪目立ちすることではない。あれだけ個性的な、むしろ強烈すぎるくらいのキャスト陣の中で、その“普通っぽさ”という軸がぶれることなく存在していたから、感情移入できて、126分間もの間月末と一緒に振り回されることができたのだと思います。

 

 

 やっぱり私は“俳優・錦戸亮”のファンなので、ファンという欲目なしに、この「羊の木」という映画を観ることはできないのだけれど。錦戸さんが主演を務めた映画だから、という理由で観たいと思ったので。もし、この映画を“俳優・錦戸亮”を知らない私が観たのなら、どんな感想を抱くのだろう。

 

 この映画を撮影していたのが2016年秋なので、約1年半の歳月を経て、2018年冬、ようやく“俳優・錦戸亮”の演技を堪能できたことになりますが。約1年半前に撮影が終わっている作品で、これだけ“俳優・錦戸亮”の引き出しの多さに圧倒されているのだから、本格的に大河ドラマ「西郷どん」の撮影を控えている2018年春、一体どうなってしまうのだろうという若干の怖さもありますが。初めての大河ドラマという大舞台に挑む“俳優・錦戸亮”の演技を、余すことなく見届けたいと思っています。

 

 

  映画を観終わった後、こんなにも内容について考えてしまう、ずっと頭から離れないのはこの映画「羊の木」が初めてでした。そんな「はじめて」をくれた作品の主演を務めたのが“俳優・錦戸亮”という事実。エンドロール、一番最初に映し出される「錦戸亮」の名前を観ながら、誇らしく思っていました。

 

 未だに「朝から食ったすき焼き」は消化されてはいませんが、消化しきった頃に、もう一度食べに行こうと思っています。

 

 

 “俳優・錦戸亮”、次はどんな世界を見せてくれますか?

*1:この「羊の木」という映画の中で、唯一他の受刑者との関わりのない清美。そんな清美も浜辺の清掃中に羊の木が描かれた缶の蓋を拾ったことで、家の周囲に死んだ小動物を埋めるという行動を取るようになるのですが。死んでしまった亀を前にして泣いている子どもに「さよならじゃない。木が生えて、また亀に会えるから」と慰める下りにあるように、死んでもまた生まれ変わって新しい命が芽吹く(=死は終わりではない)から、そうすることで殺めてしまった恋人を弔い、「希望」を願っているのではないかな、と。